「ありのままの自分」見つけるフリースクール

不登校

<インタビュー・小宮久恵さん>

 

学校へ行こうとすると過呼吸に

長女が高校1年生のとき、不登校になりました。夏休み前までは、通っていたんです。ごく普通に。部活の合宿にも参加して、休みが明けた9月のことでした。学校へ行こうとしたら、急に過呼吸になってしまって。保育士をしていた私の職場の保育園に、駅の救護室から電話があり迎えに行く。やがて、まったく通学できなくなりました。

 

スクールカウンセラーさんから「行かないと、留年か退学になってしまう。ご家族が連れ添ってでも『保健室登校』ができれば、出席日数になりますので」と促される。

 

それで、ダンナが車で送っていたんですけど、娘は本当にしんどそうで。最後の方は、制服を着るのもつらそうにする。親としても、「こんなことまでして行く必要があるかな」と思うように。「違う学校を考えたらいいんじゃないか」と家族で話し合い、結局その学校を退学しました。

 

新しい友人関係やハードな部活動に悩む

娘から不登校の理由をはっきり聞けたわけではありません。スクールカウンセラーさんからうかがったことと、本人がポツリポツリ話したことをつなぐと、おおよそこんな内容でした。

 

高校で、仲がいいはずなのに、その場にいない子の悪口を言うことに、とてもショックを受けたようです。娘は、中学時代、クラスや男女を越えた友だち関係があり、和気あいあいと楽しく過ごしました。今でも付き合いがあるほど。そんな生活が、ずっと続くと思っていたようです。でも、高校という「外の世界」に出てみると、人が陰口を言ったり、一方的に考えを押し付けたりすることに、初めて出会ってしまった。真面目で正義感の強い子なので、考えられないことだったのでしょう。

 

もう1つは部活動です。バスケットボール部でしたが、人数が少ないので、スタメンとして試合に出れることはあったのですが、体力的にはきつかったようです。朝練、夜練があり、学校も遠い。ストレスが重なったのか、部活中に何回か過呼吸になったことがありました。中学生のときのバトミントン部の部長をやっていましたが、でもやはり試合で過呼吸に。高校の先生には、そのことをお伝えしていたので、つらそうにしていれば「休んでいいよ」と声はかけてくださったようですが、精神的にもしんどかったようです。

 

親にも相談できず、逃げ場を失う

今思えば、娘自身が、通学を望んだ高校だったことも一因かもしれません。進路選択の際、都立と私立を志望していました。見学に行くと、外国人の先生が説明する私立の国際コースに憧れます。親としては経済的にも都立を勧めましたが、本人が強く希望するので、結局、その私立に行かせることに。入学してみれば、思い通りではなく悩むことも増えたようで。自身が望んだことなので、今更「行けません」とは言い出しづらかったのでしょう。

 

高校生だったので、自分の胸の内は親には言わないし、先生から連絡もない。娘にすれば、部活も友だち関係もしんどいし、困りごとをどう解消すればいいか分からず、逃げ道がなくなってしまったのか。私たち親に、「こんなことがすっごい嫌だ!」と相談できる関係だったら、不登校にまではならなかったのかなと、後で悔いました。

 

退学後すぐに、通信制高校やサポート校を親子で探し、何校か見学。そしてあるサポート学校に入学します。私もダンナも、「学校が変われば行けるだろう」と思っていました。時間割もだいぶゆとりもありますし。でも、やっぱり行けたり行けなかったり。これにはとまどいました。家族で話しているとき、「学校が変わったんだから、行けるんじゃないの?」と問い詰めると、娘は黙りこむ。「それって甘いよね!」と私。するとポロポロと涙を流す。傍らで、二世帯で住む義理の母が、「この子、習い事のお習字は、ちゃんと行ったのよ」と教えてくれたんです。そのとき、「娘は学校に行きたくても行けないから、好きなお習字だけでもと、行こうとしたんだな」と気付いたんです。なんか、こう…やろうとしてるのに、うまくいかないことってあるんだなぁと。そこでやっと娘の気持ちを感じ、涙が出て、「ごめんね」と伝えました。

 

自分の中の「常識人」に気付く

自分は、何事も「ちゃんとしている」ことが「正しい」と、勝手に思っていた。「時間に遅れないように」「人に迷惑をかけない」「近所の人にはご挨拶する」とか、「常識を大事にしなきゃ」と頑張ってきました。でも、学生時代を思い出すと、自分はどちらかというと時間にルーズ。待ち合わせに遅れても、「本当にゴメン!」みたいな (笑)。反抗心もあった。高校を卒業して専門学校に行き身なりも自由な友人と遊んでいると、父親から「そんな友だちと、夜までふらふらして!」とよく叱られて。その度に、「人としての価値を、立場や容姿で左右するなんて!」と怒りを覚えたものです。

 

社会に出て保育士になると、自分自身が変わってしまう。保護者の対応とか、仕事を何時まで終わらすかとか、業務を滞りなくこなすよう、日常に追われるように。子どもたちと過ごす毎日は楽しかったのですが、彼らと向き合って、その気持ちをどこまで理解できていたのか…。

 

娘のことがあって、自分を改めて振り返ってみると、本当に大切なことが見えなくなった「常識人」になっていたんじゃないか、と気付かされました。

 

解離症で、病院に運び込まれる

サポート校に行けなくて、引きこもりじゃないですけど、ずっと家にいたことがあった。夕方、仕事から帰ったら、義母から「今日1回も起きてない」と。部屋に行ったら、息はしているのですが、呼んでも起きない。心療内科で一応お薬ももらっていましたが、若くても脳溢血の可能性もあるんじゃないかと。心配になって、救急車を呼びました。

 

病院に運ばれて、しばらくは意識がなかった。私とダンナは、廊下でずっと待たされて。だいぶたってから先生が現れ、「心理的ストレスが大きいときに起る『解離症』です。とてもショックなことがあると、稀に意識がなくなったりすることが。重症ではないので、今回検査は必要ありません」と説明。同時に、私とダンナに「虐待の可能性があると思い、様子を見ていた」とも。「あぁ、なるほど」と思いまして(笑)。先生は、少しだけ本人の意識が戻ったとき、「お母さんに飲み物、買って来てもらう?」と声をかけると、「うん、リンゴジュース」と答えたそうです。「会いたくない」ではなく。痣などもないので、「大丈夫」と判断されたとのこと。結局、その日は、入院することもなく、家族みんなで帰宅しました。

 

焦燥感に責めさいなまれる娘を見守って

本人は、「みんなは学校に行っているのに、自分は行っていない」ということが、すごくつらいようでした。不登校中は、仲が良い友だちが誘ってくれて、会ったりはしていた。そのときは楽しいのでしょうが、帰ってくるとすごく落ち込む。次の日は、ほぼ寝てる。親としては、もう心配でしかたない。「ただ、今日も明日も元気でいて」「命があるだけでも幸せ」みたいに思ってしまって。

 

よほど仕事を辞めて、娘に寄り添おうと考えました。職場の上司に相談すると、「今、あなたが辞めたからって、娘さんが嬉しいとも思わないだろうし、逆に、また『自分のせいだ』と負い目を感じかも。最善策じゃないのでは」と。迷いはありましたが、義理の父や母に頼りながら働き続けることにしました。


ニュージーランドに留学し、海外生活を満喫

最終的には、ニュージーランドに留学したんですよ。海外の高校に入れるエージェントを探すことができ、向こうで学校生活を送れました。1年半と長くいたので、家族で一度、ホストの方の家にお邪魔しまして。すごく良い方で、みんなで楽しく過ごしました。そのとき娘が、他の人たちと英語でしゃべる様子を見て驚きます。私が泊まるホテルのチェックインで、インド系の受付の方が早口すぎて、その英語が1ミリも分からないところを、娘は普通に対応。異国の地でちゃんと意志の疎通ができるんだと、頼もしく思いました。

 

帰国後、娘が、「何かやろう」と意欲的になるだろうと勝手に思い込んでいました。単身で海外に行って、人と違う経験をしたわけですから。そうではなかった。高校を卒業した、という地点までようやくたどり着けたという感じです。家にいることが多く、文章を書いたり、絵を描いたりの生活に戻りました。

 

通信制の大学で学び続け、やりたいことを探す

「帰国子女」という経歴を生かして、国際系の大学に行ければいいと、私も娘も考えていました。それで、オープンキャンパスへ一緒に見学に行ったんです。すると、ざわざわした感じが、どうしても受け付けず、恐いらしい。人のいろんな感情に反応してしまう。そのとき本人は、いろいろ調べてみて、自分が「HSP (Highly Sensitive Person/感受性高く繊細な気質を持つ人)じゃないか」と認識したようです。

 

恐いところに、また行ってもしょうがない。もう一回仕切り直しです。学びたいのであれば、人が少ないところを探せばいい。いろいろ探し合った結果、通信制美術大学の「和の伝統コース」を見つけ、受講することに。今も「大学生」してますが、この先、何年通うんだろうかと(笑)。勉強の傍ら、手先が器用なので、アクセサリーをつくって販売したり。本当にやりたいことが見つかるまで、実家にいればいいと思っています。ただ娘も、将来のプランは少し考え始めたよう。通信制の大学の方は、後1年ほどこちらで学費を支払ってほしいけど、それ以降はバイトなりして自分で工面するということです。

 

ある意味、娘が高校時代に、不登校になって良かったと。もし、社会に出て、独り暮らしを始めたときに、つらい状況に直面したら、どこに助けを求めたらいいか、分からなかったかもしれない。義理の父母も支えてくれるのも大きいです。私が仕事で家を空けていたとき、義母がずっとごはんをつくってくれて。今もそんな感じなんですよ。「二世帯」といってますけど、実際はいつも一緒にいます。家族みんなでよく話すし、年末に親戚を呼んで、餅つきなんかわいわいやっています。

 

下のきょうだい2人、各々「自分の道」をゆく

長女の下の2人の子も、それぞれ自分の道を進んでいます。

 

真ん中の20歳の長男は、一浪して、今、地方の国立大学に。高校の3年間は、群馬県の公立高校に通い、自然環境科で学びました。県外から生徒を受け入れる学校なんです。息子は中学を出て、すぐホームステイしました。

 

一番下の次女は、ニュージーランドの高校に。入学したのは、日本の私立高校ですが、1年間の留学プログラムがあるんです。家族で長女に会いに行ったときの経験から、行きたいということだったので。

 

私もダンナも、長女に「進路は、自由に選んでいいよ」と言った手前、ほかの子たちも「どうぞ、ご自由に。お金だけは、なんとか頑張ります」という感じに。

 

きょうだいみんな、すごく仲が良いいんです。長女が不登校になったときも、あれこれ言わないでいつも通り過ごしてくれました。今度の夏休みには、3人で高知への旅行を計画し、「飛行機代は出して」というので、そうしました(笑)。

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