12年の不登校を経て、教師の道へ

不登校

<インタビュー・清水伊吹さん>

なぜ、不登校になったのか?

不登校になったのは、姉や兄の影響が大きかったですね。たぶん姉は、中学生の頃、いじめがあって以来行ってなかったかな。兄も小学校は行っていたと思うんですが…。記憶にある限り、僕は、小学校から高校まで全部行ってません。幼稚園もです。すごく人見知りだったこともある。そして「家にいる方が楽しい」ということになっちゃった。でも本当のところ、理由がはっきりしないんです。

 

小学3年か4年の年齢になった頃、給食だけ食べに何回か行ったことがあります。事前に献立表をもらい、好きなメニューがある日を選びまして。学校では、同級生や先生がよくしてくれたようですが、怖かったですね。いつも教室の中まで、給食を取りに行けなかった。結局、毎回、職員室で昼食をとることになる。

あるとき僕は、好奇心で職員室の冷蔵庫を勝手に開けてしまったんです。するといつも優しかった先生が、急に人が変わったように怒り出したので、おびえました。その時、たしか母と親しくしていた女性の校長先生が、「私が『学校へ来て』と呼んだのだから」とかばってくれて。僕は泣きながら、ずっと校長先生の傍にいたようです。以来、「学校は怖い」という思いが、強くなったのかなぁと。

 

人が怖く、友だちの言葉に傷つく

幼い頃から、人間不信だったと思います。受け入れてもらえず、裏で悪口を言われたら「

イヤだな」みたいなことを、先回りして考えてしまう。当時は、髪を切らずに長髪でした。子どもたちからすると、イジリやすいじゃないですか。「貞子だぁ~!」って、はやしたくなる。それで傷つくわけではないんですが、注目されるのがイヤだったんです。悪意的でも好意的でも、「人の目の怖さ」を感じてしまう。

 

やはり、小3か小4のとき、公園で友だちができ、何回か遊んだことがあります。「あっ、キヨミズじゃん!」と苗字を呼んで、輪に入れてくれた同級生の男の子がいたんです。「なんで学校に行かないの?」とも聞いてこない。…いや、聞かれることもあったかな。そのときは耳をふさいでました(笑)。

でもある日、妹と砂場にいると、その子が「お前、まだいんの?」と言ってくる。いつもと違う、冷たい感じに聞こえたんです。「友だちだと思ってたけど、これまでわざわざ無理して付き合ってくれのかなぁ」と、落ち込んでしまう。以来、公園に行かなくなりました。その子の言葉が、ずっと心に刺さって。人の「言葉」の鋭さを意識した最初の体験です。

 

病弱な母と、4人きょうだいとの暮らし

小学校に行かない間、家では、ずっとゲームをして過ごしてました。それも限度があるので、4歳下の妹と遊ぶことが多かったです。スカートよりもズボンをはくことが好きで、スポーティな子でした。でも、僕が小6か中1の年齢になると、ささいな喧嘩で距離ができてしまう。姉は7歳上で、当時すでにバイトしており、日中は家にいない。4歳上の兄は、基本的にパコンばかりやっていて、口をきかなかった。ごくたまに、家族みんなでカルタをやったこともあったけど、「楽しい」と思ったのは、そのときぐらいかな。

 

家にばかりいて、退屈することもありましたが、「傷つきたくない」という気持ちの方が大きいので、自分から「外に出たい」とは思いませんでした。母が、いろいろと連れ出してくれたんですけど、人から話しかけられるたび、陰に隠れてしまう。「子ども支援センターげんき」(足立区)の学習支援を受け、通って勉強をしたこともあります。「人が怖いなぁ」という気持ちが消えず、やがてそこも行かなくなりました。

 

母は、「身が重い」感じだったんですね。当時、40代50代だったか、体が思うように動かない。お腹が大きく張って、それこそ「身重(みおも)」の妊婦さんによく間違われました。ほとんど仕事に行けない状態。別れた父からの養育費で、家族の生活費をまかなっていました。

離婚したのは、妹が生まれて数カ月だったかな。以来、父は、僕を含めて子どもたち4人が成人するまで、月々一律で15万円を振り込んでくれてました。確か今も、建設会社の現場監督をしてると聞いています。

 

家事をこなしつつ、生活ペースはずれていく

子ども4人とも学校へ行かないので、生活のペースはどうしてもズレていきます。母は、小学生の頃、僕と妹を朝7時に起こして、布団を上げて床掃除をし、朝食をつくり…と、生活リズムは整えてくれました。でも、当時から兄は朝が遅い。僕も中学生の年齢になってからは、完全に昼夜逆転の生活になりました。インターネットをやったりすると、しょうがないですね。その頃、家では、パソコン7割、家事3割ぐらいやって過ごしていました。

 

晩年に至るまで、母は寝込みがちでしたが、それでも無理して家事をしていました。強い人ですから。きょうだいたちは、自分の分のご飯はつくるものの、全般的に家事を手伝うのは僕です。そのおかげで、生活能力は身に付きました(笑)。

 

中学校の入学式で「お役ゴメン」

中学校へは、入学式の1日だけ行きました。以降、3年間、不登校に。

 

「初日は行こう」ということで、母は学生服を用意し、母方の祖父や祖母が「入学祝い」にと、外食に連れて行ってくれました。結局その日もダメになり、「あぁ、やっぱりね。みんなごめんなさい」と、僕自身がっかりしました。

 

圧倒されましたね。急に集団行動はムリなんです。他の子たちは、小学校で「こうやって動く」というルールを身につけている。僕は、どうやっていいか分からない。廊下で立ちすくんでいると、「こっちへ行くんだよ」と、見知らぬ子に言われる。教室で席につくと、筆箱を持って来てないことに気付く。困っていると、隣の席の子がペンを貸してくれました。「あぁ、すげ~足引っ張ってんな。申し訳ないなぁ…」と思ってしまう。

 

先生が教檀に立つと、「入学式で花束を持つ人を、各クラス男女1人ずつ選びます。立候補する人は?」と呼びかけられました。僕はそのとき、「もう学校に行くのは最後だから、迷惑かけた分を取り戻せればいいなぁ」と手を挙げたんです。クラスのみんなが「おぉ~っ!」となった。それで花束を持ち、入学式で「お役ゴメン」ということで終わりました。

 

…みんなは、悪いやつとは思わなかった?…いやぁ、だと思うんですよね。当時の僕は、全部悪い方にとる。「自分が『自分であること』を認めてもらう」というよりは、「『みんなが求めている自分』になれない」ことに悩む。「他人軸」で思考していたんです。

 

母は「不登校」をどう思っていたか?

母は、不登校については、そんなに心配はしていなかったのかな。「勉強しなさい」と言うこともなかったです。僕に「何かやってみたい?」と聞いて、近くのスーパーに行き、小さなドリルを買ってくれたことはありましたけど。勉強に関して、僕は「自分には分からないもの」という諦めというか、食わず嫌いの気持ちが先行してしまって。

 

ただ母は、「良い言葉遣い」を学ぶことを、学校に行かない条件にしていました。「死ね!」などは、はもちろん御法度ですよと。「これがない」ではなくて、「別のこれがある」と言い換えるなど、マイナスの言葉をプラスの言葉にすることを、子どもたちによく言い聞かせていました。人と話す上での、「言って良いこと」と「悪いこと」のけじめは、しっかり躾けていたように思います。

 

母自身、最終学歴は、美術大学まで行ったとか。母の父、つまり僕の祖父は、お弟子さんもたくさんいるような画家なんです。娘である母に対して、「お前は画家の子なんだから、絵の道へ進め」と、自分の付属品のような感覚で接していた。我の強い方だったのかな。でも母は、大学を卒業するなり祖父に宣言。「あなたの求めるラインまでやりました。ここから先は、自分の人生を歩ませていただきます」と。それで実家を出て上京し、画商の仕事を会社員としてやり始める。絵に関することだけど、自分のやりたい仕事だった。後に父とで出会って結婚し、専業主婦に。

 

昭和の詰め込み教育を受けたのか、母は「学校」には、あまり良いイメージを持っていなかったようです。学校を「『プリン工場』みたいになってる。それって、どうなのかな?」と疑問を口にしてました。「子どもにはそれぞれの個性があるのに、全員を『プリン』の形に加工してしまうのは、なんかもったいない」とも。

 

母は、大らかで優しい人でした。そして、筋が通らないことに憤り、「不義は許さない」という性格なんです。

 

家族に生まれてしまった溝

母は、「中立であること」を信条としていました。例えば、妹が「ある子に、とてもイヤなことをされた」と相談したとします。すると「しゃくにさわることがあったとしても、相手に本当に悪気があったのか、立ち止まって考えてみて」とアドバイスする。どちらかというと兄や姉は、「言った相手が悪い!」と肩を持つ。きょうだいは、「そうだよねぇ~つらかったねぇ~」と、無条件に受け入れてほしかったんだと思います。こうしたすれ違いが、母への不信感につながったのかな。僕の方は、自分と気質が似ていた母をかばうように。

 

兄は高校生の年齢になると、バイトを始めます。母が「うちにお金を入れて」と言いましたが、そうしませんでした。その頃には、家族は2つに分れ、溝ができてしまいます。

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