12年の不登校を経て、教師の道へ

不登校
思春期に突如訪れた「母の死」

母の病気は、「急性間質性肺炎」。酸素を交換する肺胞の壁(間質)が、炎症・繊維化し、肺が硬くなることで呼吸不全になるという難病です。でも、結局、病院には行きませんでした。入院することを恐れていたようです。その時点で、生活費が削られ、家族の生活が止まってしまうからでしょう (※前文一部ですが、入れてみました)。一方で、僕は、ある意味、母の病気に慣れてしまって、「安静にしていれば治る」と思い、とくに行動に起こすことはなかった。後で、そのことを悔やみました。

 

僕が高校3年の年齢のとき、急に体調を崩します。それまでは、一緒に買い物に行くぐらい調子が良かったのに。日中でしたが、着替えを取りに部屋へ行くと、母が布団の上に横たわっている。「お腹を出しているなぁ」と思って、近づいてみると息をしてない。手を当てると、体も冷たくなっている。「あぁ、いなくなっちゃったんだぁ…」と。

 

当時、18歳でした。といっても、社会経験がないので、感性としたらほとんど小学生レベルかな。親がいなくなることは…「う~ん」というか…。

 

きょうだいと決裂する

母の遺体が救急車に運ばれて、病院から僕ときょうだいが家に戻ったときでした。自宅で亡くなりましたので、駆け付けた警察から、病気か事件かを調べるためにいろいろと尋問を受けます。「きょうび、病院に行かないとは珍しいですね」と警察の方が言うと、姉か兄かが「そうなんですよ~」とヘラヘラ笑って答えているように見えたんです。今思えば、外部の人に対するコミュニケーションの一環だったかもしれない。でも当時の僕は、冷静じゃなかった。その言葉に、「こいつら、何を言ってる! その対応は何だ、 ありえねぇ!」と思ったんです。 もう本当に…憎かったですね。壊れてたんです。

 

その日に僕は、近所の中華料理店に足を運び、面接をお願いします。僕が16才の頃か、母は仲の良いその店のオーナーに、「この子を働かせてくれない?」と言ってくれてたのを思い出したんです。僕は、すぐに自立したかった。もし、そのとき店に行かなかったら…もうニュースになるような事件になっていたかと思います。

 

母の死後しばらくして、別居していた姉が、家に顔を出すようになりました。姉、そして兄と妹はとても仲良くしている。僕だけ食事も別にされました。あるとき、僕の分のカレーライスが、トレイで置いてあったんです。3人は、向こうで一緒に食べていた。当時はまだ外で暮らすお金もない。ふがいなさと悲しみで、1人、涙を流して食べました。母がいなくなったことで、家は、僕にとって快適な空間ではなくなってしまった。

 

20歳になったとき、きょうだいから「成人したんだから、家を出てね」と言われ、怒りに震えました。そして、家を出ます。

 

中華料理店のバイトで、「人間」修行

バイト先だった中華料理店オーナーは、2児の母でしたが「店の看板娘」的な存在で、その明るさによく助けてもらいました。

 

僕が働き出して1カ月後に、佐久間さんが入ってきました。以来、よく相談に乗ってくださり、僕の将来のことまで考えてくれて。ときに尻も叩いてくれる。また自身の息子さんの不登校をきっかけに、不登校支援の活動をされていたことを知り、驚きました。佐久間さんは、当時の僕を「『人間』なってなかった」とよく言われます(笑)。人と接した経験が極端に少ないので、すべてぎこちないからです。例えば、問われたことに、ズレた答えをすることが多かったり。

 

同僚たちにも恵まれました。1人は1歳上のAさん、もう1人が同じ齢のBくん。どちらかというとBくんは外交的で、僕の方が「弟」みたいにちょっかいを出してくる。Aさんは、それに少しブレーキをかける感じ。あるときBくんを「伊吹は真に受けるんだから、ヤメロよ!」とたしなめる。そのとき僕は、「オレって、冗談が伝わりづらいんだ…」と気づきます。やっぱり、「コミュニケーションしてこなかったのは、イタイなぁ」と痛感しました。

 

「ヒコヨ」は、徐々に力をつければいいい

バイトでは、「1日1ミス」ですね。ものを壊したりもありましたが、とくに伝達ミスが多かった。オーナーは、僕が学校に行っていないことは認識していますが、「社会人と同じ対応をする」と、ミスに対してむしろ同僚より厳しく叱りました。

 

それに対して、佐久間さんはオーナーにすごく怒ったらしいんです。「社会経験もなんにもない『ヒヨコ』に、そんな人間みたいな力を求めるな!」って。僕の能力を低くみるんじゃなくて、「できないことはできるように、着々と力をつけてやれるようになればいい」と。あんな僕にかかわりを持ってくれたことに、本当に感謝しています。佐久間さんは「私が30のときの子どもだから」とよく言ってくれます。僕にとっては「第2のお母さん」…。

 

みんな良い人でした。きょうだいの運はなかったけど、「環境」には恵まれたと思っています。当時僕に必要だった「厳しさ」と「優しさ」が、そこにありました。

 

夜間中学校で、多様な背景の級友と学ぶ

僕に「教育」の機会を与えてくれたのも、佐久間さんです。あるとき、「進路どうするのり?」と尋ねるので、僕は「高認(高等学校卒業程度認定)がほしい」と話しました。すると佐久間さんは、「子ども支援センターげんき」の所長さんに相談。「いきなり高校は無理。まず夜間の中学で、義務教育課程を習得すれば」とのアドバスを得て、僕に伝えてくれました。

 

それで、夜間中学校に入学します。19歳でした。基本的に、生徒は外国人の方が多かったですね。日本語学級も入っているような学校なので、中国、ネパール、インド、フィリピンなど、いろいろな国籍の方がおられました。もちろん日本人の生徒も在籍しており、年齢も僕ぐらい年代から高齢の方までさまざま。短歌の授業で「古希迎え…」と書かれてたから、70歳の方も。

 

授業は、週5、夕方5時から夜9時まで。基本的に1授業の受講者は、4~5人、多くて6人です。先生も1人か2人なので、ほぼマンツーマンでした。クラスは、日本語の習熟度によって

ABCD(Dが最上級)に分れます。基礎を学ぶA・Bクラスは外国人の方々が多い。僕は、1月期目Cクラスから始め、やがてDに移行しました。

 

クラスのみなさんと、あまりコミュニケーションはとれなかったです。でも、体育はとても楽しかった。言葉を使わなくても、競技など体を動かすことで意志疎通ができ、ちょっとした国際交流ができたんです。

 

一番面白かったのは、国語かなぁ。家では、小説を読んでいましたが、授業ではその文章を「問い」にして「答え」を考えることが、とても新鮮でした。3年間行かなきゃいけないわけじゃなく、1年コースを選択して卒業。ここで基礎的なことは、あらかた学べました。

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